「相場」は予測するものか否か
矛盾
A・相場は生き物、そもそも「予測」する性質のものではない。
B・四の五の言ってもトレーダーとは、チャートの右側を「予測」する仕事である。
勝っているトレーダー同士でも上記のように意見が分かれているのを聞いた事がありませんか?
どちらかが、ニセモノ・・・
ではなく、
上の二つはどちらも正しいと考えます。
文法上(文の意味合い)は矛盾していますが、相場の世界では矛盾こそ真です。
同じ物事に対して別の真理を見付けているに過ぎません。
そしてまた、その真理を覆(くつがえ)す事象が起こらない限り、その正当性は否定されません。
なぜこのような「矛盾」が「どちらも正しい」のか説明していきます。
矛盾したまま情報に踊らされると、トレードに迷いを産み、迷いは不安を産みます。
どちらを信じるか、どちらも信じるか、早めにケリを付けておきましょう。
相場の真理
「相場の真相」など誰も知りませんし、あるかどうかも不明です(聖杯と混同しないように)
しかし、相場の真相など知らなくても勝つ事はできます。
相場の真相を明かさずに利益を実現する為には、自分「個人の真理」を持つしかありません。
二者が、同じモノ(相場)に対して相反する認識を持っているのに、どちらも勝っているという状況を
1枚のドアを挟んで立つ2人の人間に例えてみます。
このドアは、開かずの扉です。
反対側のスペース
ドアの向こうとこちらでは世界(空間・スペース)が異なりますが、ドアは一つです。
「こちら」と「向こう」が、居間と子供部屋だったり、店と道路だったり、ホームと電車だったりと、何なのか知る由もありませんが、とにかく、向こう側の事は解りません。
この「ドア」を研究する場合、「片側」から調査するしかありません。
このドアの両面の色が違う場合、
こちら側の人には、「このドアは青い」という真実があり、
向こう側の人には、「このドアは赤い」という真実があります。
同じ側のスペース
また、「同じ側」にいる人間でも、その「ドア」に対する評価は異なります。
ドアのプロ(なんだそりゃ)であれば、見ただけ「○○のメーカーだな」「鍵は○○式か」「○○年製だが途中で修理しているな」などと言うかもしれません。
シャーロックホームズのようにドアに付着した何かから「ペットの毛が付いている」「香水の匂いがする」なんて事を言うかもしれません。
とにかく「同じ側」でも、得られる情報には個人によってかなり大きな差が出ます。
全体のスペース
それでも、「ドア」は一つです。
ドアの向こうとこちらでは、ドアを挟んで「反対」側ですが、ドア自体は同一のモノです。
人によって、解釈のレベルや質・着眼点が違っていても、全て正しい情報に成り得ます。
「相反する認識」の複数人が、別々の手法を使って勝つ原因はこの状態に似ています。
Aさんは「毎日12時に買うと勝てる」法則を見付けたとします。
Bさんは「毎日6時間置きに買うと勝てる」という真理に気付きました。
Cさんは「毎日3時間置きに”売る”と勝てる」事を発見しました。
三人が見付けた法則はバラバラに見えますが、全てを包括する事は可能ですよね。
公約数的に矛盾しませんし、買って勝てるなら、売って勝てるパターンもある筈です。
法則
例えば「重力」が存在する理由も、しくみも、解明されていませんよね。
未だに謎のままです。
その解らないモノに対して、矛盾しない理屈を並べて法則を作れば、その法則が覆されない限り、それが法則です。
リンゴは必ず下に落ちますが、ひょっとしたらそうでないかもしれません。
ただ、落ちている以上は、今の理論で正しいし問題ありません。
これからも、落ちる事を前提として生活すべきですし、そうでないとヤバいですw
相対性理論と量子力学は矛盾しているのに、どちらも世の中の重要な法則ですよね。
(詳しい事は知りませんが;)
ニュートンもアインシュタインも間違えるんです。
このように、真相なんて、誰も知らないのです。
でも勝つ事はできるんです。
ドアの認知
私はこんな事を言っていますが、勝っているトレーダーは皆こんな事を認識しているのかというと、全くそうではありません。
前述のとおり、ドアの向こう側なんて知らなくて良いし、ドアそのものに気付いてなくても構いません。
これは、私が彼らの意識レベルを超越した高見にいると言っているのではなく、私自身も、人の数だけ存在する無数の解釈の中の、一つのパターンに過ぎません。
ドアの例えでは、ドアを隔てて世界を二分して説明しましたが、相場ではこのスペースがトレーダーの数だけあります。
1億人トレーダーがいたとしても、ドア一つです。
(ちょっと想像できないドアですが)
そしてトレーダーの数だけ、ドアの解釈があります。
1つのドアに対して、矛盾する複数の考えが成り立つ理由がお解り頂けたと思います。
それがしっかりと、ドアを定義する理論であれば、何であれ、問題ないのです。
まだ矛盾して聞こえるでしょうか?
「予測」は可能
また、言葉の遊びをする訳ではありませんが、「予測できるか?」といえば、出来ます。
ハズレても「予測」は予測ですよね。
多くの人はこれを「予言」「予知」と混同して、「そんな事はできない」といっている事が多いと思います。
もちろん、100%当てる事は誰も出来ません。
70億人中、一人もいません。
私の今の感覚としては、予測はし続ける、が、結果は全くアテにしない。
とういう感じです。
矛盾して聞こえるでしょうか?
結果をアテにしないのに予測する意味があるのか?
と思うでしょうか。
でも、何もしない訳にはいかないでしょう?
トータルで勝てる以上、
自分の予測精度の期待値がプラスである以上、予測しますよね。
この「期待値1以上の予測」を今後も保ち続ける為には、今後も「同じ事」をし続けなければいけません。
一貫性が重要である事の所以ですよね。
途中で別の行動をすると、期待値が狂いますから。
合っていようと、間違っていようと、必ず同じ事を一定期間続けて検証しなければいけません。
探究心
別の角度から説明してみます。
多くの哲学や宗教が、例えば「愛」に明確な答えを提示し、求心力を得ます。
「こうすれば救われます」「○○する事が愛の形です」とかです。
人は、捉えどころのないモノや、将来に対しての不安を抱き、その答えを与えられる事によって安堵し、前向きになれます。
世にはびこる悪質(?)教材もこれを利用しています(こうすれば勝てますよってヤツですね)
これらを全く否定しません。
しかし、ソクラテスは『愛が何であるか』は重要でなく、『「愛が何であるか」を探究する事』が重要であると言って、いまだに哲学者の頂点にいると言えるでしょう。
平たくいうと、「真実」なんて一生考えても解りゃしない、しかし、解ろうとする行為そのものが尊いのだ、と、言う事。
(私の解釈です)
「考えても解らない」から、と、考えるのを止めたら、動物と人の違いが無くなります。
(動物は好きですよw)
答えなんてない、でも答えを求めましょう、それが、答えになるんです。
(聖杯探究と混同しないように)
おわり
なんか難しいカンジの話になってしまいましたが、
難しい事を理解してなくても、誰にでも勝つチャンスはあるという話をしていたという、
矛盾した話でした。
矛盾する内容に悩みや疑問を持ったままだだと、トレードに迷いを生むので悪影響です。
戦場で迷う事の危険度は解りますよね。一瞬の判断が命取りです。
「自分の中」で結構ですので、答えを持つようにしましょう。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。